好奇心

オカルト、ホラー、未解決事件の話題を中心に取り上げる「好奇心」です。

とある登山掲示板に寄せられた遭難体験

 登山と言えば遭難。遭難と言えば道迷い。道迷い遭難は近年増加傾向にあり、最近では五頭連山における親子の遭難死事故が記憶に新しいかと思います。


 初心者はもちろんベテランの方でも往々にして陥ってしまうのが道迷い遭難の不可思議。地図とコンパスを持っていようと気が付けば登山道から外れ、山の中を昼夜問わず彷徨い続ける恐ろしさは筆舌に尽くしがたい。


 今回はそんな道迷い遭難について、とある登山掲示板に寄せられた体験談をピックアップしてみます。

 

 以下、原文ママでお送りします。










【台高】道迷い遭難、迷岳届かず(長文です) 2012502() 19:42


『自戒の念を込めて』


 GW前の絶好の気圧配置、2日間は晴天だ。GWはどうせ仕事だし、ここは溜まった休日出勤を使って日帰りで山でも歩こ。で、どこにしようかな・・・個人的には旧飯高町の町境踏破中だし、丁度『野江股の頭』と『大熊谷ノ頭』の間未踏破だし、ここにしよう。けれどこれだと距離が物足りないから、足を伸ばしてついでに迷岳まで縦走だ。一日でなかなかの縦走だ。けどマズイナ・・慌てたので地図の準備が・・・とりあえずネットで打ち出して切り貼りして尾根線だけ作成する(初めての経験)、おっなかなかの出来。これを持ってイソイソと別荘へ。前日はノブちゃんと切ってあった杉の製材、久しぶりに会った山の人達と宴会。オジヤンに翌日の迷岳下山口までのお車でのお迎えを頼むと快いお返事、『まああの尾根は電波OKだろうからまた電話しろ』とのこと。何もかも上手くいくときはトントン拍子に進んでいく。


【日付】2012年4月24日・25日

【山域】台高山系(野江股の頭~白倉山~大熊谷の頭)

【天候】ほぼ快晴

【ルート】

1日目:江馬小屋林道終点登山口(705)~滝見尾根(1000)~野江股の頭(1200)~白倉山(1440)~八景山?(1530)~ビバークポイント(1730

2日目:ビバークポイント(500)~白倉山(820)~大熊谷の頭(1000)~林道終点(1030)~水場(木下作業場)(1130)~林道入口(1200)~江馬小屋林道入口(車デポ地)(1230)~森診療所(1300

【メンバー】単独(雨子庵)


 当日、快晴を約束してくれる霧の朝。車で江馬小屋林道へ。奥は崩落のため橋の前に駐車。

 ダウンベストどうしようかな?おいおい今日は名古屋夏日だぞ、そんなのもってってどうするの?そうだな置いてこ。


 20分ほど歩き半分だけ残った赤い橋をおそるおそる渡る。斜面に取り付いたそのとき顔前にいきなりシカの死体が。うわッ。まだフレッシュなオスだ。ツノ取ろうかと思ったけど、まあ明日のお楽しみにでもと考えスルー。


 そして簡単なルートガイドが目に留まる。


「左登山道、右バリエーションルート、上級者向き、滝見尾根」


 そういえば去年は左を行った。まあだとしたら今回は上級者向けだよな。躊躇なく右へ。てっきり江馬小屋と野江股の真ん中の尾根をダイレクトに登るくらいだろうと考えていた。行くにつれ右にドンドントラバース。やがて徒渉のポイントが。対岸にルートテープ、トラロープも見える。川は前日の雨で増水濁流。


「エーッこれ渡るの」


 戻ると1時間のロスだ。覚悟を決め靴を脱いで徒渉。歩き続けると右斜面、野江股谷左岸の斜面をドンドン登るスタイルになる。


「待てよ・・・そういえば風折滝が見えるポイントがこの上にあったな、まさか滝見尾根って」


 後の祭り、深く考えず入り込んだミス、かなり遠回りだ。やがて尾根に。しばらく行くとホントに風折滝が見えた。


「おー綺麗だ」


 写真撮ってると人の気配。後ろから単独行の人が来てびっくりする。先方も同じ気持ちらしい。


「エッここ初めて?初めてでこの尾根に来たなんてヤマカンが強いんですね」


 と言いながらもイロイロ親切に教えてくれる。しばらく行くと高滝と風折滝が同時に見える。いや~道間違えたけど来てよかった。


「野江股の頭まで行くと展望ないからこのへんでヒルメシ食いましょう」


 とのお誘いを丁寧に辞退し、「野江股」ピーク(1270m)で一人でメシに。実はきのうSA焼き鯖寿司なるものを買っていて、見られるのも少し恥ずかしかった。「今日のヒルメシ1100えーん♫」などと歌いながら食べる。


 先程の方が追いついてきて、大熊谷の頭まで行く予定であったが、江馬小屋出合いの橋も流されているので、ここで降りるとのこと。今からだと迷岳までは時間的に無理ですよと忠告受ける。私自身ももはや半分諦め、とりあえず大熊谷の頭までは行こうと思いますと答える。迎えがくるなら一緒に行っても良いと言われたが、ケータイが電波OK印なのに何故かつながらない。迎えは不確定ですとしかこの時点では返答出来なかった。


「いずれにしてもここから大熊谷の頭までは3時間かかるよ(この人はホントに詳しかった)気を付けてね」


 しばらく歩くと一瞬ケータイがつながる。


「オジヤン、遅くなってもいい?迷岳か大熊谷の頭(庵の谷林道)か。また電話します」


 この時点ではほぼ庵の谷下山しかありえない時刻であったのになぜここではっきり決断しなかったのだろう?


 次の小ピークまで1時間かかった。


「やっぱりけっこうかかるな」


 晴天で喉も乾く。普段なら1ℓのペットボトルで済むくらいなのにお茶の消費も激しい。あと200ccくらいか。オジヤンに電話連絡。


「庵の谷に降ります。すいませんけど飲み物も欲しいです」

「水くらい自分で調達しろよ(そのとおり)」


 白倉山(1236m)辺りが今日唯一の注意箇所か。地形図で見ると、ピークに立ち左へUターンするように次への登山道が続いている(実際はピーク手前で縦走路が大きく湾曲し、ピークはルート上になくはみ出ている感じ)。


http://watchizu.g.jp/watchizu.html?long ... 7581868164 

(貼り付け技術未熟のため地図見れないかもしれません)


 その白倉山にあっさり着いた。キョロキョロ見るも左に道は無い。ああここでなんというミス。


ここは白倉山ではないぞ、ときどきあるんだこういうデタラメ山名板が。さあ急がないと


 哀れ、直進し何も考えず古ヶ丸山方面へと入り込んでしまった。だいぶ昔宮川村から入って、古ヶ丸山までは登ったことがある。


「間違ってもあっちは行かないようにしないと。確か古ヶ丸山から白倉山の登りはきついと書いてあったな」


 尾根を歩きながら見ながらずっと思っていた。その白倉山から古ヶ丸への下り。いきなりフェースにザイルがはってある。


「なんだ縦走路なのに結構きついな」


 何も考えていない。


 次の小ピークにうっすらと「八景山(?)」の山名板が。


「ああやっと白倉山だもはや理解不能の思考早く左に曲がる道を探さないと」


 見ると左支尾根に点々とルートテープが(多分沢屋さんの)。


「ほら~俺はヤマカンがいいんだから」


 おそらく1064の尾根。下り始める、ドンドン下っていく。


「おかしい、1000m前後の尾根歩きなのに」


 正面に見える稜線は滝見尾根だと思い込んでいた(ホントは迷岳の尾根線)。しかも対岸正面に大きな滝(大熊谷の魚止か不動滝?)、その右には黄砂に霞みながらうっすらと林道(口迷岳直下の林道)が見える。はるか下流に巨大な砂防堰堤も見える、何故か上流向けて存在しているようにも見える。


 江馬小屋のあんなとこに林道あったけ?あるわけが無いよな?だんだん不安が大きくなっていく。ただケータイははっきりつながる。


「オジヤンゴメン、道を間違えました。ただ江馬小屋には降り続けてます。下の川も見えてます」

「江馬小屋の辺はイワクラが多いから無理はするな」

「わかりました」


 下り続ける。太陽が沈みかける。先が分からなくてイライラしてくる。そんなとき靴紐を枯れ木に引っ掛け、つんのめる。クソッと無理やり取ろうとしたら、木が左足ふくらはぎに突き刺さった。


 サクッ


 ホントに軽い音。「アッ」と思って見るとスポーツタイツを通して血が脈打つように吹き出している。


「ああ、血管切ったな」


 傷口を見るのは怖くて止めた。手で抑えると黒い手袋が血でドンドン濡れるのが触感、におい、妙な温かさでわかる。手ぬぐいで圧迫止血だけ試みる。タイツも靴下も黒でよかった、精神的にやられずにすんだ。


 やがて標高666mで断崖絶壁に遭遇進退きわまる。オジヤンの電話が圏外だ(江馬小屋で待機してたらしい)。この少しの間に少しずつ冷静に。同じく山の先生のノブちゃんに電話する。


「スイマセン現在地不明です。道に迷いました。ビバークします。俺は冷静です。ここから見える風景は、真北の対岸に大きな滝。下の川は西から東に流れてます。はるか下流に大規模堰堤が見えています。電池の問題があるのでケータイ電源切ります。オジヤンに伝えてください。ご迷惑をおかけします」

「わかった、気をつけろ」


 この内容でオジヤンは俺が白倉山を直進したこと、宮川に下山の可能性ありと周りに説明をしたらしい。


 さあ、ビバークと決めたら早速泊適地を探そう。運良く針葉樹の天然林、頭上にもこんもりと葉がある。コウヤマキ?の落葉はベッドみたい。冷気を防ぐために山側に大きな岩があるとこ探して、仮の宿。止血の手ぬぐい締め直して(イテテッ)、痛み止め(ロキソニン)飲んで。


 現在の服装はモンベルTシャツに、モンベルのパンツにワコールスポーツタイツ、ファイントラックの夏用のズボン。これに加え着込めるものはモンベルのラガーシャツ、カッパの上だけ(ストームクルーザー)、ご当地今治のタオルマフラー、これは首に巻いた、なかなかあったかい。ちなみに止血に使っている手ぬぐいそしてタオルマフラー以外は全て化繊。ダウンベスト置いてきたこと悔やむがまあ仕方ない。今はまだ暑いくらいだ。


 残りの食料がミニあんぱん3個、栗まんじゅう1個、お茶100cc程度、ハイチュウ、チョコレート。食欲はゼロ。


 現在18時、明日の朝までの時間を1821212403時と3つに分けた。この中でどこかで寝れれば。明け方35時は寒くて寝れんだろうし。ザックをマット替わりにし猫のように丸くなって横たわる。丁度ラジオでナイターをやっていた。


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仮の宿。針葉樹のマットが快適だった。


 そのとき、はるか下流方向でライトが見えた。ドキッとした。車のライトだろうが、一応期待をしてこちらからもヘッドランプをかざすがどう考えてもあんな距離まで届く訳がない、止めた。この行為の後、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、俺はここで終わっちゃうのかなと思ったがこの考えはすぐやめた。


「道に迷っただけだ、元来たとこ戻れば済むだけだ」


 ナイター聴きながらウトウトする。ドラゴンズ負けてガッカリ。その頃空腹感が襲ってくる。ハイチュウを食べる。唾液も出てきて口も潤う。


「ハイチュウって世界イチ美味しいな」


 次にチョコ。


「チョコは宇宙イチだ」


 ラジオと時々のハイチュウとチョコとウトウトで適当な時間が流れていく。この適当がよかったのだろう。途中ビックリするような冷気もあったが、しのげた。こんな寒いのによく寝るなと感心した。


「シカに顔踏まれたらえらいことだ」


 変な心配を何故か真剣にしていて、ときどき近づく動物の気配には敏感に反応し、そのたびガバっと上半身をおこし、セキ払いで応戦した。相手が何かわからないのは怖かった。


 朝、鳥の声で目を覚ます。


イカイカン5時だ」


 朝メシあんぱん2個食べて出発。

 白倉山(1236m)へと、降りてきた尾根を忠実に登り返す。6時オジヤンに電話。


「8時頃に白倉山に着きそうです。そのときまた電話します」

「お前は宮川におるぞ」

「はい現在地も何となく分かってきました。白倉に着けばそのまま下山出来ます」(その後尾根線では一切ケータイは圏外だった)


 白倉山着。


「疑ってゴメンナサイ赤いポスト」


 ピークの向こうにあっさりと大熊谷の頭(1190m)への道は見つかった。


 徐々に脱水症状らしきものが始まる。下りはいいのだが、登りになると心臓だけがバクバクして足が上がらない。ここでケーレンとか起こすわけにはいかない。残り少ないお茶を舐めるように、ホントに舐めるほどの少量ずつ口に含む。


「そうだハイチュウだ」


 ポイッと口に含むが、唾液が全く出ない。コロコロしたハイチュウが口の中で転がるだけ。


「あんなに世界イチ美味しかったのに・・・それにこれは何味だ?」


 大熊谷の頭、最後の登り約100m、少し登って、ガクっと膝を付いて、腰を下ろして空を見上げる高度計を見る。10m登っている。


「これでいい、これを10回やればピークだ」


 ダンダンピークが見えてくる。オジヤンと山に行ったとき、俺が登りがきついきついと文句を言うと、「山は頂上に近づくとなだらかになるんだ」と言われたことを思い出す。もう少しもう少し。頂上だ、助かった。30分後には林道着。


 ここからは林道を水を求めてひたすら下る。途中で側溝に緑がかった溜まり水があったが、ウ~ン、大腸菌感染とかあとが面倒だぞ。理性が勝った、スルー。なんだかんだで山の人(木下氏)が作業場としている川の横に着いた。ひたすら水を飲む、頭からかぶる、残っていた栗まんじゅうを食べる。少しホッとする。ただいくらウガイしても口の中のネバネバは治まらなかった。木下さん、休憩場所お借りしました。次はオジヤンに連絡しないと。江馬小屋の車へと気持ちは急ぐ。


 途中運良く上流から軽トラが降りてくる。初めてというくらい車の正面に立ち懸命に手を振って止める。


「すいませんオジヤンを知ってますか?」

「モチロン知ってるよ」

「実はわたし遭難してました。無事下山をオジヤンに電話して欲しいのですが。ケータイが残念ながら圏外で」

「それよりもお前を車のところに連れてくほうがいいだろう。とにかく乗れ」


 車をUターンして江馬小屋に送ってくれた。


「ケータイはダムの橋の手前のところでつながるから」

「ありがとうございました」


 いつものように車が出るのをお見送りしていると、「(見送りは)ええから早く車をだせ」と言われた。そりゃそうだ。


 オジヤンに電話。オジヤンもさっきまでこの辺に待機していたらしい。『森の診療所』に寄って後で挨拶に行きますと伝える。さあ、ケガの治療だ。先生の前で初めてタイツを脱いで想像以上の傷にビックリ。肉がそげ落ちて、傷の深さがみえない。よく止血出来たな。


「まあ静脈は止まるよ。ウンウンこれは治るよ」


 とりあえず仮縫いで2針ほど縫うことに。ボーっとしている俺を何度も気遣ってくれて「大丈夫か?」と声を掛けてくれる。先生としては、術中に体調を崩したのではと考えていたらしいが、俺はパッカリ開いた傷口にズンズン突っ込まれている血染めのガーゼを見ながら、それまでに起こったことをボンヤリ考えていた。そして少しずつ先生に自己紹介や今回の経緯の説明をし、オジヤンやノブちゃんの話で盛り上がっていると唐突にオジヤンが自分の家のように普通に診察室に入ってきた。


「なんや、診療所に寄ると言ってたから、点滴でもしてるかと思ってたらケガしてたんか・・・」


 一気に泣いてしまった。


「ゴメンナサイ、すいませんでした」


 緊張の糸が音を立てて切れた瞬間だった気がする。






 あたかも読んでいるこっちが遭難しているような臨場感でしたね。看板の読み違いから道迷いは始まり、冷静さを取り戻して足を止めるのは、断崖絶壁に遭遇し進退窮まったあと。

 まさに時既に遅し。道迷い遭難の恐ろしさはそこにあります。焦りが通常の判断力を鈍らせ蟻地獄へと迷い込んでいく。


 この方の場合、最低限の野営装備を持っていたこと、ラジオがあったことで冷静さを保てたこと、そして翌日は冷静に来た道を戻れたことから、最小限のダメージで済んだのではないでしょうか。


参考:http://www.yabukogi.net/viewtopic.php?f=4&t=910&sid=46d3db690815229ac93ab77addfae504

世界最古の物を集めてみた(随時更新)


 最新の物は更新され続けますが、最古の物は永遠に更新されません。

 世界最古の物はWikipediaの「世界最古の一覧」に載っています。


 
ここでは上記に載っていない物を集めてみました。


  • 最古のCM

 世界最古のCMは、ブローバという会社が
1941年7月1日に放映しました。ブローバというのは1875年に創業されたニューヨークの時計宝飾店です。新規な取り組みが好きな社風らしく、1926年には全米で初めてのラジオCMを流しています。つまり、放送メディアの最初のCMは、両方とも同社だったと言う訳です。




 アメリカは、ブローバの時間で進みゆく」("America runs on Bulova time,")とのアナウンスが流れる10秒だけのシンプルなCMです
credit:https://mashable.com/2013/08/01/first-tv-commercial-bulova-video/

 ちなみに日本における最古のテレビCMは、時計メーカーの精工舎(現・SEIKO)が1953年8月28日に放映しました。本来は正午を知らせる時報として流される予定でしたが、フィルムが裏返しにセットされるというハプニングの為、同日の夜7時に改めて放送されました。




 世界最古の写真は、1825年ごろに撮影されたUn cheval et son conducteur』(馬引く男)と言われています。こちらは日光の反射により作り出した像を土瀝青という光を当てると科学変化を起こす物質に焼き付けるという手法を利用していました。版画撮影には時間を要し、8時間から20時間の間とされます。あまりにも露出時間が長いため、建物や静物など動かないものの光景しか写すことができず、あまり実用的なものではありませんでした。


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credit:Wikicommons


  • 世界最古の映像

 1895年、パリのリュミエール博物館で公開された映画「工場の出口」が世界に残る最古の映像です。時計の技術を応用して、連続写真が撮影でき、同時に映写もできる機械「シネマトグラフ」により撮影されました。水の入ったフラスコをレンズ代わりにし、光源は当時街灯に利用され始めたアーク灯を使用しています。




  • 世界最古の物語

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credit:WIRED

 2020年、43900年前の“物語”が、インドネシアの洞窟で壁画として見つかりました。


 壁画が発見されたのは、スラウェシ島南部の人里離れた洞窟。イノシシやスラウェシ島固有種の水牛「アノア」が異様に小さい猟師の一団と対峙している様子が、全長4.5mにわたって暗赤色のみで描かれています。

 この壁画の左端に添えられた暗赤色の手形のステンシルは、古代の芸術家のサインのようにも見えます。この洞窟の北東部にある入り口から差し込む太陽の光が、床上3mの高さに描かれた壁画を照らします。

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 この洞窟は20mもの高さの崖にある洞窟で、簡単に足を踏み入れられる場所ではありません。

 島民の生業を描いたと見られるこの壁画は、フランスのラスコー洞窟(15500年前)よりもずっと古く、世界最古の物語と考えられています。


  • 世界最古のチーズ

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credit:GIZMODE


 古代エジプトの墓を発掘している途中で見つかったのは、3200年前のチーズでした。
 化学分析によると、ハードチーズの一種であり、ヤギ、ヒツジ、そして奇妙なことにアフリカスイギュウ(現代のアフリカでは飼育・搾乳されない、一般的に家畜と結びつかない種)からの乳を混ぜて作られていました。塗り広げられるほどに湿気ていて味は濃く酸味が強いそうです。

セーヌ川の身元不明少女とは?

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引用:Wikicommons

 

 

 

 1880年代の終わりごろ、セーヌ川ルーブル河岸から一人の少女の遺体が引き上げられた。

 

 その遺体には暴行の痕跡がなかったことから、自殺と考えられ、身元不明のまま調査が終わった。

 

 

 そんな彼女に名前「L'Inconnuedela Seine」(セーヌ川の身元不明少女)を与えたのは、1926年に発行されたデスマスクのカタログだ。

 

 そのデスマスクはパリのモデラーショップで最初に売り出される。ベートーベンやオリバー・クロムウェルなどの男性のデスマスクの間にぶら下がっている女性の顔は、ひと際目立った。さらにそのデスマスクには微笑が浮かんでおり、たちまち人々の話題となった。

 

 そのミステリアスな少女(以下レサシアン)の遺体は人々の想像を刺激し、文学や音楽の題材として使われたのち、遂には心肺蘇生用の人形にもなった。

 

 以下、Leardal社ホームページからの抜粋。

セーヌ川の少女~
20世紀初頭、パリのセーヌ川で少女の遺体が引き上げられました。危害を加えられた痕跡もなく、それは自ら命を絶ったものでした。
少女の身元は確認されなかったため、当時の慣習にのっとり「デスマスク」が製作されました。そのうら若き少女の繊細な美しさとうっすらと浮かべた微笑が、彼女の死に謎を残しました。
このミステリーについて、様々な憶測がなされ、ロマンティックな物語が数々出版され、彼女のデスマスクとともにヨーロッパ中に広がっていきました。
後に、口対口の人工呼吸法を実用的且つ効果的に教えるためのトレーニングマネキンを開発しはじめたアスムンド レールダルによって、「セーヌ川の少女」は、再び脚光を浴びることになりました。彼は、この少女の早すぎる死に胸を痛め、悲劇がくりかえされないようにと、心肺蘇生訓練用マネキンに少女のデスマスクを採用。「レサシアン(製品名:レサシアン)」と名づけました。
セーヌ川の少女」から生まれたレサシアンは現在、世界中で何100万人もの近代蘇生の救命テクニックを学ぶ人々、救われた人々の生命のシンボルとなっています。
https://laerdal.com/jp/docid/6681880/Symbols-The-girl-from-the-river-Seine

 

 

  • 正体は? 過去の事例は?

 正体は現在に至るまで分かっていない


 だが、セーヌ川では毎年約150人近くが自殺を図り50人近くの遺体が回収されている自殺の名所であり、彼女も自殺者の一人ではないかという所で衆目は一致している。

 レサシアンが発見された時代にもセーヌ川では遺体が多く揚がっており、当時はモルグという施設で遺体は一般に公開されていた。

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参照:Wikicommons

 19世紀の終わり頃、モルグという遺体安置所は、セーヌ川の島の端、シテ島ノートルダム大聖堂のすぐ後ろに位置していた。

 

 遺体安置所が扱った死体の3分の2セーヌ川から引き上げられたものであり、それらは大半が自殺で、残りは偶発的な溺死、殺人などであった。

 

 遺体安置所の係員は、街を巡回し、死者の衣服、傷跡、傷を注意深く調べた。そののち、遺体は遺体安置所の窓に立てかけられた12枚の黒い大理石のスラブに展示され、調査が適正に行われたかどうか、一般の人々による"監査"が行われた。

 

 この不気味なショーケースは、パリで最も人気のあるエンターテイメントの1つになった。地元の人々や観光客は、普段目にすることの少ない光景を目当てにモルグへ訪れた。


 このモルグへと集まる遺体は、年齢も性別も様々であり、中にはレサシアンと同じような少女の遺体もあった。

 1895年には、フランスの日刊紙がセーヌ川から8歳の少女の遺体を引き上げたと報道している。さらに翌日、その近くで今度は13歳の少女がやはり川から発見された。新聞は"このふたりは姉妹だろうか?"と問いかけたが、この遺体も結局続報のないままであり、レサシアンと同じく身元不明遺体として処理されたようだ。

 

 つまり、セーヌ川から身元不明遺体が揚がることは過去にも珍しいことではなく、その中にはレサシアンと同じような少女も多くいたのだ。

 

 が、レサシアンだけがこれほどまでに注目を集めたのは、遺体に似つかわしくない微笑のおかげだろうか?

 

参考

 “Ophelia of the Seine” The Guardian Weekend magazine

https://www.theguardian.com/world/2007/dec/01/france.art

 Influence and authenticity of

l'Inconnue de la Seine

http://www.williamgaddis.org/recognitions/inconnue/index.shtml

 

橋北中学校水難事故で語られる幽霊の噂について検証

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 1955728日、三重県津市の海岸で女子中学生36人が水泳訓練中に溺死した。この事故は現在に至るまで日本最悪の水難事故として知られている。


 そしてこの事故が語られる際に決まって話題となるのは幽霊の話だ。


 事故から生き残った一人が言うには、「もんぺ姿の女が海中に漂っていた」という。


 ではこの事件は実際にはどのようなものだったのだろう。


岸から約10メートルのところでジャブジャブやっていたところ、突然高波が襲いかかり、足を波に奪われてあわてて救いを求め、先生の身体にしがみつくもの、手をあげて沈んでゆくものでしゅら場となり、他の組で泳いでいた先生もかけつけて次々に救い上げた。
朝日新聞1955728


 この事件で生き残った生徒達によれば、溺れた理由は「大波にさらわれた」というものと、「海底の流れに引きずり込まれた」というものがあった。またメディアや国会は教師達に事故の責任を求め、教師たちの責任が追及された。


 ここで注目すべきは、いずれの記事においても幽霊の話は出ていないことだ。事故発生当時は幽霊の話など無かったということだ。


 この水難事故の背景に初めて幽霊が現れるのは、事故から約1年後となる1956729日に掲載された『伊勢新聞』の記事だった。

 この記事中では、事故から生き残った生徒の一人が「海の底から女性が足首を引っ張りに来た」という証言を載せている。また、事故のちょうど10年前に空襲によって津市の中心部が壊滅し、その無縁仏が事故の起きた海岸に埋められたという話も載せられている。


 空襲があったことはどうやら本当のようで、以下に挙げる通り市街地一帯が火の海になり、死者も多く出た。


深夜から29日未明にかけて、焼夷弾が「雨あられ」の様に投下されて市街地一円が炎上し、罹災家屋は約10000戸、死者344名・行方不明38名。
 
被害者数は資料によってまちまちで、死者については14921745名となり、戦後の経済安定本部『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』では1885名となっている。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-tsu.htm


 そして事故から8年後、『女性自身』に生還者の一人である中西弘子氏の手記が載せられた。


「弘子ちゃん、あれを見て!」私のすぐそばを泳いでいた同級生のSさんが、とつぜん私の右腕にしがみつくと、沖をじっと見つめたまま、真っ青になって、わなわなとふるえています。その指さすほうをふりかえって、私も思わず、「あっ!」と叫んでSさんの体にしがみついていました。
私たちがいる場所から、2030メートル沖のほうで泳いでいた友だちが一人一人、吸いこまれるように、波間に姿を消していくのです。すると、水面をひたひたとゆすりながら、黒いかたまりが、こちらに向かって泳いでくるではありませんか。私とSさんは、ハッと息をのみながらも、その正体をじっと見つめました。
黒いかたまりは、まちがいなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいておりました。夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした。
『女性自身』1963722日号


 中西氏は他にもテレビ番組「アンビリーバボー」の2003年に放送された回で幽霊を目撃した旨を本人自らの口で語っている。


 事故の当事者が言うのだから信憑性は高いはず。本当に幽霊の仕業なのだろうか。


 しかし流れが変わったのは2020年のことだ。『死の海』にて後藤氏が改めて彼女に話を聞いたところ、本人は幽霊を目撃したことはないと語った。


 中西氏の発言が二転三転しているのは気になるが、おそらく幽霊の話は作り話の可能性が高い。メディア用のリップサービスといった所だろうか。


 ともあれ、戦争の犠牲者が戦後の復興を担う子供達を道連れにするという悲しい話はなかったのだ。


 この事故を機に全国の小中学校にプールの設置が進んでいき、この事故は今もなお全国の水泳教育の中で教訓として活かされている。


 今の日本を見て戦争及び事故の犠牲者も少しは救われたと思いたい。


参考:後藤宏行著『死の海 「中河原海岸水難事故」の真相と漂泊の亡霊たち』(2019年、洋泉社

"首吊り村"下多島の噂は本当なのか? 検証してみた

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  • 発端となったコピペ

22 : 本当にあった怖い名無し : 2008/08/04() 17:10:46 id:BESbFkZB0 
俺が四年前まで住んでた村がヤバかったな 
下多島村ってところなんだけど知ってる奴いるかな? 
上多島村と下多島村ってのがあるんだけど、下多島村は部落の方 
閉鎖的も閉鎖的で祭りには絶対に部外者を招待しない 
対して上多島村はそんなことないんだよな 
この上と下の違いの詳細は不明 
で、下多島村で一番怖いのが自殺者の多さ 
ほぼ毎年自殺者が出てて 
村にある電柱の何本かは首吊りに使われることで有名 
というか自殺者の全員が首吊りなのもちょっと怖かった 
俺も深夜に隣町の本屋に出かける時とか、その電柱の側を通るのが怖かったな~ 
出典 5ch


 調べてみたところ、「下多島」及び「上多島」という地名は、過去にも現在にも日本には存在していません。


 ですが、「下島」及び「上島」という地名は実際にあるようです。宮崎県と群馬県にそれぞれあるようで、宮崎県の場合


1886年の「地方行政区画便覧」には(旧)佐土原町、上田島村、下田島村、下那珂村、東上那珂村、西上那珂村と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐土原町


 宮崎県の佐土原町の合併前に、上田島村及び下田島村が存在することが分かります。

 

 ですがこの地名は合併によって130年以上前に消えており、今では知っている人も限られているのではないでしょうか。そんな昔の地名を2chに書き込むような若者が知っているのか? その点が疑問に思います。


 もしかすると字単位ではかつての地名が残っているのかもしれません。もしくは、地元の人が日常会話の中で昔の呼び名を便宜的に今でも使っているのか?


 とりあえず「宮崎県 下田島」でググってみたところ


宮崎県宮崎市佐土原町下田島

https://www.navitime.co.jp/address/45201179000/宮崎県宮崎市佐土原町下田島/


 ありました。


 「下田島」。現在でも地名として残っているようです。ついでに「上田島」もありました。


 ということは、宮崎県説はかなり有力となりそうです。


 では、もう一つの候補である群馬県の上田島・下田島を見ていくと


1889年(明治22年)41 - 町村制施行により、小金井村の一部、脇屋村の一部、由良村の一部、藤阿久村、別所村、沖野村、西野谷村、上田島村、中根村、下田島村が合併し宝泉村が成立する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/泉村


 こちらも先ほどと同様に、合併によって消えた地名となっています。しかしこの場所でも町という形で地名が現在にも伝わっているようです。


群馬県太田市下田島町

https://www.navitime.co.jp/address/10205146000/群馬県太田市下田島町/


 群馬県説も有力。ということは、宮崎と群馬の下田島・上田島について調べていけば手掛かりを掴めるはず。


  • 検証


 なんと実際に地元の住人に尋ねてみた方がいました。


www.excite.co.jp/news/article-amp/Weeklyjn_17354/


 どういう反応だったんでしょう。宮崎県では


「県の自殺者が多いという話は聞くが、上田島や下田島で自殺があったなんて聞いたことがない」(50代・女性)

「上田島では鬼子母神の祭り、夏祭りなどを行っているが、下田島でそのような秘密の祭はないと思う」( 60代・男性)

「ここで自殺した人なんていません。自殺したい人は、このへんなら海のほうへ行くと思います」(40代・主婦)


 宮崎県説は薄い?


 では、群馬県についてはどうでしょう。


「近くでねぶた祭りがあるが、上田島、下田島で祭りはない」( 60代・女性)

「電信柱で自殺した人の話なんて聞いたことがないね」(40代・女性)


 返ってきたのは先ほどと同様の反応。群馬県説も薄くなりました。


 結局、ネットに転がる創作の一つなんでしょうか?


 しかし、ここで興味深い話が出てきます。


「ここら辺でそういった風習があるというのは聞いたことがないが、わしが生まれるよりも前に、宝泉という集落で殺人事件が起こったというのを聞いたことはある。確か、何人か死んだはずだ」(80代・男性)


 宝泉と言えば、下田島を合併した村の名前。そんな村で何人も亡くなった殺人があった。


 自殺ではなく殺人ですが、手掛かりになるかもしれません。


 群馬県警ホームページの事件・事故年表に唯一該当すると思われる見出しがありました。


大正13年 泉村(現太田市)の八人殺傷事件
https://www.police.pref.gunma.jp/subindex/nenpyou.html

 ネット上には他に情報はなく、国会図書館の公開資料にも手を広げてみましたが、関連する物は見当たりませんでした。


 そこで上記記事の記者様は、太田市の図書館へと足を向け、当時の新聞(おそらく上毛新聞)マイクロフィルムを確認しています。


 そこには一本の記事が掲載されていました。


大正13216日の午前3時頃、中島飛行機製作所の職工で宝泉村藤阿久に住む高田猶次郎(28)は深夜、突然槍を持ちだし、祖父( 77)と自身の長男(6)、二女(5)3人を殺害。さらに実母(50)と妻(30)、妹2(16)(9)、長女(6)らにも重傷を負わせた。原因は父である高田次郎蔵が急病で危篤になった影響で、一時的に精神に異常をきたしたものではないか


 事件の起きた場所は宝泉村の中でも藤阿久という場所であって下田島ではありませんが、この事件に間違いなさそうです。一家八人殺傷というのは当時でも大事件だと思いますが、今から100年前の事件ということもあり、聞き込みでもそれ以外の情報は知り得ませんでした。


  • まとめ


 ここまでをまとめると、首吊り村「下多島」の噂の真相は、おそらくデマです。よくあるネットの創作話の一つでしょう。部外者には秘密の祭りが伝わっているというのも、沖縄にあるアカマタクロマタから着想を得たのではないでしょうか。

 ネット上に転がる様々な話を組み合わせて作った創作というのが結論です。


 ですが、モデルとされたであろう(もしくは適当に付けた名前と偶然似ている)場所で、過去に不気味な事件が起きていたのは確かです。それも内容が「一家八人殺傷」。一家八人殺傷と言えば、かの杉沢村伝説を彷彿とさせます。コピペ検証の過程で歴史から消え去った事件が掘り起こされ、思わぬところで呪われた村との接点が見えたというのは、偶然の一致にしても、どこか奇妙で興味深い話ではないでしょうか。


参考:www.excite.co.jp/news/article-amp/Weeklyjn_17354/

「鬼門を開く方法」とは?

「鬼門を開ける方法」とは?


  • 発端となったコピペと事件

35 :本当にあった怖い名無し:2008/06/11() 23:59:01 id:A2lg6WN+0
鬼門を開ける方法
本当に、人生が嫌になったらこれを試してください。
1:秋葉原駅から日比谷線に乗り、茅場町駅で降りてホームを八丁堀方面に行くと、
鉄格子の下に塩がおかれてるので、それを足で蹴散らしてください
2:そのまま東西線に乗り換え、高田馬場駅で降りてホームを西武新宿線乗り換え方面に行くと、
鉄格子の下に塩がおかれているので、それを足で蹴散らしてください
3:そのままもう一度東西線茅場町駅で降りて改札をくぐり、4a出口の階段の下に米を10粒たらしてください
4:そのまま日比谷線茅場町駅に乗り、築地駅で降りてホームを築地本願寺方面に行くと、
鉄格子の下に塩がおかれているので、それを足で蹴散らしてください
5:そのまま日比谷線に乗り、目を閉じてあなたが一番したいことを考えながら手を組んでそのまま乗っていてください。
 
49 :本当にあった怖い名無し:2008/07/10() 20:03:42 id:Uhl0wg6pO
仕事終わりで暇だから、ちょっと35を実践してみるテスト
てか、本当に塩があってビビッタ。これマジで何の塩?おせーて
出典:5ちゃんねるより



 上記が発端となったコピペですが、このコピペに現在まで語り継がれるような不気味さを与えたのが次の事件です。



11日朝、東京・目黒区の会社社長宅のプールで、若い男性が血を流して死亡しているのが 見つかりました。 
警視庁は、男性が事件に巻き込まれた可能性もあるとみて慎重に調べています。11日午前6時20分ごろ、目黒区東山の会社社長宅の庭にあるプールで、「若い男性が 頭から血を流して死亡している」と、この家の住民の女性から110番通報がありました。
警視庁の警察官が駆けたところ、水が入っていない庭のプールで、男性が白っぽいシャツ姿で 
うつ伏せに倒れていて、まもなく死亡が確認されました。
出典:読売新聞



 コピペの翌日に起きた奇妙な事件。なぜ男は面識のない家の庭で血を流して倒れていたのか?


 鬼門を開く方法を試してしまった>>49の成れの果てなのではないか?


 半ば都市伝説としてこのコピペと事件はネット上のオカルトマニアに語られるようになりました。

  • 知られざる続報と検証


 あまり知られていませんが、実はこの話には続報があります。



11日午前6時20分ごろ、東京都目黒区東山1の会社社長宅の庭にあるプールの中で、男性が倒れているのを 家政婦が見つけ、110番通報した。 
警視庁目黒署員が駆けつけたところ、水のないプールの底で、陸上自衛隊1佐の宇佐美真(ただし)さん(49)が 頭から血を流して死亡していた。門扉が開いたままになっていたことから、同署は宇佐美さんが敷地内に入り込み、 誤って転落したとみている。 
同署幹部によると、宇佐美さんは半袖シャツにスラックス姿で、長さ20メートル、深さ約1・4メートルのプールの 底に、うつぶせの状態で倒れていた。 
宇佐美さんは幹部研修を終え、JR恵比寿駅近くで同僚と酒を飲んだ後、東京メトロ中目黒駅近くにある宿泊先の ホテルに戻る途中だったとみられる。 
現場は、東急東横線中目黒駅の北西約500メートルの高級住宅街。
出典:読売新聞


 鬼門を開けたとされる>>49ですが、「仕事終わり(20時)で暇だから検証する」と言っています。

 

 しかし、記事の方では被害者は幹部研修を終えたあと同僚と酒を飲んでいたとされています。

 

 おかしい。

 

 飲んだ後宿泊先のホテルへ向かう途中に書き込んだのかもしれませんが、20時というのは少し早すぎます。

 

 このあと酔って敷地内に侵入し、誤って転落したと記事では触れられています。

 

 このことから、鬼門を開ける方法を実践したからこの事故が起きてしまったという可能性は低いでしょう。

 

 そもそもなぜこの噂が騒がれていたかと言うと、最初のコピペと事件だけがセットで拡散されているからなんですね。

 

 続報を見ればなんら関係はなさそうです。

 

 ちなみに、肝心の噂の盛り塩ですが、検証している方のブログが見つかりました。


http://www.another-tokyo.com/archives/50506302.html


 その結果、盛り塩は見つかっていません。


 まあ、既に蹴られた後だったとかいう解釈もありますが


 検証の結果、やっぱり作り話という線が強いですが、創作としても面白い話には違いないです。