好奇心

オカルト、ホラー、未解決事件の話題を中心に取り上げる「好奇心」です。

10年前ネット上に流れた謎の動画 「I feel fantastic」の正体は?

  • 謎の動画


 全ては、とある動画がYouTubeへ投稿されたことから始まった。以下の動画だ。





 この謎めいた動画は、2009年にReddit投稿された物(現在削除済み)がYouTubeに転載(上記の物)された形で広まった。最初にRedditに投稿された動画は"I didn't make it"(私は助からなかった)というタイトルだったようだ。


 噂によれば、ある人がReddit投稿者にコンタクトしたところ、彼はその動画を「奇妙でレアなある動画専門会社」から手に入れたらしく、他に分かることと言えば、これは彼らの17番目のコレクションだということだけだった。そしてその会社もオリジナルの出所は全く分からず、フェイクの窓を使ったセットで撮影されたものらしいということしか気を留めなかったという。


 殺人があったことを示していると憶測する者もいる。動画は途中で急に場面が変わって意味もなく草地にズームしているため、このアンドロイドは殺されてそこに埋められた女性を表しているという噂もある。この動画は殺人をふざけたジョークにしてしまう殺人者の病的なやり方だというわけだ。こんな突拍子もない説は信じないにしても、機械的な声と無表情な顔に背筋が凍る思いをさせられることは間違いない。


  • 動画の正体は?


 その正体は、とある企業が歌うandroidを製作し、その販促用として作られたミュージックビデオだ。


 以下に公式ホームページがある。


http://www.androidworld.com/prod68.htm 


 未だに現役のようで、例のPVが販売されている。androidには一応名前があり、"TARA"と呼ばれているようだ。そう言われてみると無機質な人形にも少し親近感が湧いてくるかもしれない。


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cresit:http://www.androidworld.com/prod68.htm 


 このTARAによるミュージックPVがネット上で販売され始めたのは2004年からであり、Redditにおける初出よりも5年遡ることになる。

 

 しかし当時は有料でしか視聴することができない上、低品質の動画だったために不評だったようだ。


 ちなみに映像途中で意味深にクローズアップされる風景は、ミュージックPVを製作した企業の社員が自宅の庭を映した物らしい。曰く、もともとテスト用に撮った映像だったのだが、イタズラ心でPVに混ぜてみたところなんかオシャレだったのでそのまま採用した。


 かくして不気味なミュージックビデオは生まれたが、実際に目にしたのは限られた人々であり、そのうちネットの海に呑まれ、人々の記憶からも消えていった。


 しかし転機が訪れたのは5年後の2009年だった。PVを手に入れた何者かはこれ全世界に一般公開した。どこの企業とも知れないマイナーなサイトで販売されるミュージックビデオが、不特定多数の衆目に晒されたのである。


 そこではミュージックビデオであることは秘匿されており、作成目的の分からない不気味で奇妙な動画として、瞬く間に人々の目に留まることとなった。

 

 当然多くの噂が飛び交う中、海外の都市伝説マニアが出した答えは「殺人者の作ったビデオだろう」、「あの風景は犠牲者が埋められていることを示唆している」。さらに日本においても「検索してはいけない」言葉として界隈に知られていった。


 時は流れて2015年。ネット上の都市伝説マニアは深層webブームに湧いていた。「blank room soup」、「sadsatan」など深層webから発掘された奇妙な動画たちが世に広まる過程で、作成目的も出所もわからない動画は深層webに由来しているという風潮が定着した。

 

 「I Feel Fantastic」も例に漏れず、深層webから発掘された奇妙な動画の1つということにされていった。


 そうして謎の動画「I Feel Fantastic」は、10年の時を経る中で奇妙性を保って人々の記憶に根付いていったのだった。


  • まとめ

 謎の動画「I feel fantastic」の真相は、ミュージックPVの購入者が(おそらく悪意をもって)PVをネット上に一般公開した結果、その動画があまりにも不気味すぎて、変な噂が広がったということだった。

 もしかすると、他にも同じような経緯で深層web産のレッテルを貼られている動画があるのかもしれない。その辺りはまた別の機会に譲りたい。


・参考

史上最年少で日本ダービーを制したのち戦死した悲運の天才騎手「前田長吉」

 一年に一度、世代の頂点を決める競馬界の祭典「日本ダービー」。


 数千頭から選び抜かれた僅か十数頭の傑物が顔を揃える中、当然騎手にも相応の実力と経験が求められ、その証左としてダービージョッキーは基本的に30歳以上が殆どだという。


 しかし今から時を遡った戦前には、わずか20歳でダービーの王冠を手にした騎手がいたのだ。


 それは前田長吉という青森出身の見習い騎手だった。


 長吉の打ち立てた記録は今もなおダービー制覇の最年少記録であり、もはやアンタッチャブルレコードと言える。


 長吉はその後も数多の重賞を獲得する快進撃を続けた。


 しかし栄光への道は早々にして絶たれてしまう。戦争だ。


 彼は太平洋戦争に徴兵され、そのまま大陸で終戦を迎える。すぐさまソ連が侵攻を始め、長吉は捕虜としてシベリアへ連行されると、現地での過酷な強制労働の中で帰らぬ人となった。


 騎手として活躍したのが日本中央競馬会発足(54年9月)より前の「日本競馬會」時代だったため、残された資料が少なく、人物像も騎手像もベールにつつまれた「謎の天才騎手」として語り継がれてきた。


 「戦火に消えた天才騎手」「競馬界の沢村栄治」とも称される悲運の名騎手。


 今回はそんな前田直吉の人生を追っていく。

誕生


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cresit:Wikipedia

 1923年、青森県是川村(現八戸市)の農家の8人兄弟の四男として生まれた。

 家には数頭の農耕馬や馬車馬を備え、またサラブレッドの繁殖牝馬を数頭所有して競走馬の生産も行っていた。長吉は幼い頃からそれらの馬とともに生活しながら馬の世話や放牧を手伝っていた。そういった環境の中で育った長吉は馬の扱いに大変長けており、特に馬の背に跨る芸術的な所作は周囲の者たちを驚かせていたようだ。また馬好きが高じたのか、近所の八戸競馬場を管理していた八戸産馬畜産組合にも、兄についていく形で頻繁に出入りしていた。このように馬と一緒に育った少年期だったが、農耕馬や馬車馬、競走馬が身近にあったことが彼の後の人生に及ぼした影響は計り知れない。


 その後競馬の世界に興味を見出し地元の学校を卒業後に上京、194021日、北郷五郎厩舎に入門した。しかし入門から半年後、北郷が亡くなってしまったため同厩舎所属の騎手・田中康三と3頭ほどの馬と共に尾形景造厩舎に入り194227日に見習騎手になった。


 長吉は5月10日の抽籤新馬戦で騎手デビューを果たす。このデビュー戦はスタート直後から先頭に立ち手綱を抑えたまま楽勝でゴールした。それ以来目覚ましい活躍を続け、騎手1年目は12戦5勝(2着2回・4着3回・5着2回)、新人で着外(6着以下)が一度もないという優秀な成績を残した。そして翌年は、「横浜農林省賞典4歳呼馬」(現在の皐月賞)で自身初のG Iレースに騎乗するなど大きく飛躍する騎手生活2年目となった。


クリフジとの出会いと日本ダービー

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cresit:Wikipedia

 騎手生活3年目となる1943年、長吉は自厩舎所属のクリフジに騎乗することになった。


 クリフジは当時最高の官営牧場であった下総御料牧場の生産馬で、リョウゴクとハッピーマイトという2頭の帝室御賞典馬を兄に持つ良血だった。


 またクリフジは当時としてはかなり大きな馬で、均より体高が10cmも大きく、文字通り周りより頭一つ飛び出ていたと言うことになる。これでも一応は牝馬(女の子)だ。


 そんなクリフジも当初は長吉でなく、兄弟子の八木沢勝美が騎乗する予定だったが、そうするともし東京優駿競走出走の際、八木沢が自身のお手馬であったミヨノセンリと被ってしまうため、尾形の命で急遽長吉が騎乗することになった。長吉の騎乗ぶりは師の尾形いわく「真面目にきちんと指示通りに動いてくれた」という。


 そしてこのクリフジとの出会いこそが、長吉の名を伝説にしたきっかけだったのだ。

 結論から言うと、長吉はこの馬に跨って8戦8勝の成績を残した。無傷の連戦連勝はもちろん、その中身も2位と大差を離してゴールするという圧倒的な内容であり、卓越した実力者として時代に名を馳せた。


 そんな輝かしい成績の中でもとりわけ語られるのが、あの日本ダービーだ。

 25頭立てという多頭数だったため中々バリヤー(当時の発走はスターティングゲートではなくバリヤーゲートを使用していた)に全頭が上手く揃わず、行儀の悪い馬もいて自分の枠に入れなかった。空いてる所へ入ろうとクリフジを横に向けた瞬間、スタートが切られてしまい大きく出遅れてしまった。しかし長吉はそれにも臆することなく落ち着いて騎乗し、最後は2着に6馬身もの差をつけて圧勝。当時のレコードも1.5秒以上更新する記録尽くしの勝利だった。


 実はこの日本ダービー、映像が残っているのでご覧いただきたい。長吉とクリフジの姿を捉えた唯一と言って良い貴重な映像だ。


当時の映像


 この時長吉は203か月であり、今に続く日本ダービー最年少優勝記録となっている。直後の723日に徴兵検査を受けたが、「丙種」(直ちには徴兵されない)の判定を受けた

 その後クリフジで阪神優駿牝馬(現在のオークス)、京都農商省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)を制しクリフジを変則三冠に導いた。

 1944年にもヤマイワイで中山四歳牝馬特別(現在の桜花賞)を制し東京優駿競走でもシゲハヤに騎乗、カイソウの2着になっている。なお長吉が最後に騎乗したレースは分かっていないが、クラシックでいえば東京優駿競走(618日)が最後だ。


徴兵とシベリア抑留

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cresit:Wikipedia

 さて、長吉は目覚ましい活躍により1944930日には晴れて見習から正規の騎手となった。


 しかし翌10月に長吉は臨時招集を受けてしまい、正式に出征が決まってしまう。 長吉は前年の徴兵検査で「丙種」(低身長により「身体上極めて欠陥の多い者」に分類)となっており、本来ならば兵役に就くことはなかったが、戦局の更なる劣勢に伴って召集されたのだ。出征前に5年以上振りに故郷の青森に帰った際は「行きたくない」と述べており、出征直前にも恩師の尾形に対して「別れが辛い」と泣いたという。


 そして来たるべき出征の日、長吉は日本の地を後にした。長吉は第107師団輜重兵第107連隊(満州452部隊)に配属され、主に満州とモンゴルとの国境付近に駐屯し、物資輸送を担当した。


 この部隊は194589日のソ連参戦によって撤退を開始し、日本の降伏から14日後の829日に武装解除し降伏した。


 そして長吉はソ連の捕虜となり、日本に帰れないままシベリア・チタ州にあったブルトイ収容所で強制労働をさせられた。所謂シベリア抑留だ。


 当時シベリアへ送られた日本人は、マイナス40が当たり前の世界で木の伐採、運搬作業など過酷な肉体労働を強いられた。生活も劣悪で食事は雑草の混じった黒パンをひと切れと未成熟の青トマトが入った塩のスープが与えられ、寝床には南京虫が湧き、横たえてから15分もすれば全身が痒みに襲われまともに寝られなかったという。長吉とシベリアで共に過ごした帰還兵の記憶からは、長吉は強制労働の果てに栄養失調となり、あばらが浮き出ていた。


 長吉が凍土に倒れるのはその後まもなくのことだった。


 ある日の夕刻、某兵より報告があった。

 「今日雪原で、堀内兵長に逢いました。彼等はボルトーイで伐採しているそうです。前田達が死んだそうです。堀内兵長から清水少尉殿に伝書を預かって来ました」

 (中略)

 ああとうとう前田も死んだのか。彼、前田長吉二十歳。彼は日本ダービーで優勝した名騎手という名に相応しく乗馬は上手だった。何より人柄が真面目、素直で、何処に名騎手の気魄を秘めているのか不思議だった。

(清水二郎著『シベリア日記』より抜粋)


 長吉は23歳になったばかりの1946228日、同州カタラ地区のボルドイ収容所で戦病死。埋葬は他の抑留者達によって掘られた穴に土葬された。


 ダービーでの伝説を始めとして偉業を成した彼だったが、正規騎手としては一度もレースに騎乗できないまま、23年の短い生涯を終えた。


日本への帰還

 その後収容所は閉鎖されたため、長らく遺骨の所在は分からないままだった。


 しかし2006になって事態は急転する。


 政府の遺骨収集団が収容所跡で持ち帰った遺骨数点の中から、長吉の物が見つかったのだ。


 同年7、死から60年振りに遺骨が生家に帰り、3日後の77日に無事前田家の墓に納められた。


まとめ
 最後に、長吉の生涯を簡単な表でまとめてみる。

1923.02.23 誕生
1940.02.01 北郷五郎厩舎に入門
1942.02.07 北郷氏の死去に伴い田中康三元騎手と共に尾形藤吉厩舎に入門
1943.06.06 クリフジで東京優駿競走(日本ダービー)を制覇
1943.10.03 クリフジで阪神優駿牝馬(オークス)を制覇
1943.11.14 クリフジで京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)を制覇
1944.06.18 ヤマイワイで中山4牝馬特別(桜花賞)を制覇
1944.10.14 徴兵される
1946.02.28 シベリア抑留中、ハバロフスクで戦病死


 こうして見ると、その波乱万丈な人生が透けて見えてくるようだ。
 ちなみに相棒のクリフジは長吉が出征した同年の1944年に引退し繁殖牝馬となったが、1945年7月7日の千葉空襲を機に北海道日高の牧場へ移され、そこで穏やかな余生を過ごした。徴兵後、故郷の土地を踏めないまま逝ってしまった主人をどう思っていただろうか。


・参考

Wikipedia(閲覧日:2021年6月5日)https://ja.wikipedia.org/wiki/前田長吉

島田明宏『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』白夜書房

清水二郎『シベリア日記』講談社

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